「理想郷」
島牧村に辿り着くまで
—— 波多野さん初めまして。本日はどうぞ宜しくお願いします。
波多野:はい。どうぞこちらこそ宜しくお願いします。
—— BIASTRA [ビアストラ] 読者様で波多野さんを初めて知る方も多いと思いますので、詳しいプロフィール、そして島牧村に辿り着き移住するまでの経緯をお伺いさせてください。
波多野:はい、私は生まれは旭川で1948年12月6日生まれの69歳で、団塊世代です。
明治25年に母親の親が20歳で屯田兵として父母兄弟と青森から旭川に。父方の親は明治28 年 14歳で母姉弟と郷里愛知県の民間人開拓団として旭川の更に北、大雪山の麓、今の愛別の原始林に入植した開拓農家です。
父は戦前満州、九州、千葉等に勤務した軍人で戦後実家のある旭川に戻りました。 5人兄弟のうち北海道で生まれたのは末っ子の私だけです。
—— 島牧村を初めて訪れたのは何才ぐらいでしたか?
波多野:33歳ぐらいですね。
—— 最初の島牧の印象イメージは?
波多野:本当に山が豊かで温暖だな〜と。綺麗な川が流れて本当に素敵な場所という印象がいっぱいありましたよ。
今はもうないけど杉の木も植えてあったかな。
島牧の前に隣町の黒松内に10年住んでいたので、島牧のことは知ってました。
—— 島牧村への移住を決めた理由は?
波多野:きっかけですか?
もうずっと、自分の生き方や目標を叶えられる場所を探し全国色々な土地を転々と探した結果が島牧なんです。
端的に言うと島牧にはブナの森があるからだと思います。
初めは宮城を中心に探し…全国を巡った感触から東日本・雪の少ない場所を選んで2年ほど放浪したのですが、今のように新規農家を受け入れるどころか、先祖伝来の、そして農地制度も厳格に農地をシッカリ守っていて入り込めない。
逆に東北新幹線開業が見込まれ無闇な開発が感じられた。しかしどこも先祖代々の土地を守っている訳で移住は簡単ではないね。
俺はどちらかと言うと金儲けできる人間ではなく物々交換の世界が良い。 そういう世界を体感していた世代なのです。
耕地の少ない島牧の農地は漁師の自給的要素が強く、大規模な観光開発の心配もない、そして海、山の自給要件の揃っていることで島牧に決めました。
外目からは黒松内と背中合わせの島牧に移っただけですが、自分的には全国の中から選び抜いた充実感がありますので今でも満足しています。
—— 島牧を理想卿として、ついにその場所を見つけることができた。
波多野:そうだね。けどね、実際に島牧へ移住となると、当時は食糧管理法というのがあったので農家として素人が入ることはできない時代だった。
お米って個人では自由に作れず作付けと出荷も国家統制がありました。しかし島牧はとても小さい村だからね、幸いゆるい運用ができるところだった。
なんとか島牧に農家として入れて、さらに平成元年の時に統制が緩和され時代が追い風に変わってきました。
自然栽培方法などで申請すれば自分で引き取ってもいいよという制度にも変わってきた。
僕としては全国回って、その結果ここ島牧村に来たんです。
だからもう決意した島牧村。肚が決まるよという。
吉澤俊輔さんとの出会いは?
—— 本リレーインタビューで波多野さんを指名しご紹介下さいました吉澤俊輔さん(第9話)との出会いは、どのような形だったのでしょうか?
波多野:私が島牧に引っ越した先に、俊輔の両親が経営するユース(島牧ユースホステル)がスグ近くにあって、自然に出会いました。
俊輔のことは彼がまだ小さい頃からよく知っているし、私の長男の1年上。
—— 波多野さんは当時ユースホステルのスグ近くに引っ越してきたのですか?
波多野:はい。私が島牧に来る数年前に、原野の中に島牧ユースホテルが開業されました。
ユースは島牧の素晴らしさを全部生かして伝えるその営業姿勢が本当にすごいと思います。
—— ユースはどのように島牧の良さを伝えていたのですか?
波多野:島牧の特徴は海はもちろん、海抜ゼロmから渡島半島最高峰1520mの狩場山(かりばやま)。その山麓に拡がるブナ原生林です。
道南で春の山菜が芽吹く中、狩場山はまだ雪化粧で6月になりやっと春です。つまり2ヶ月以上に渡り島牧では春の山菜料理を楽しめるのです。
ユースはこの自然を巧みに案内し、そのおいしい食材を都市の人々にも伝え続けているのです。
—— その素晴らしさは今日にも引き継がれているようですね。
波多野:ええ。そして素人の私が手探りで作り始めた自然乾燥のお米を、ユースは高い値段で買い続けてくれています。
今の私の無農薬はさかけ米を育ててくれたのです。
—— 本当においしいお米で感動してます。
波多野:俊輔より今から4年ほど前に『野菜を作りたいので畑を貸して欲しい』と言われ貸しました。
それが縁となりユースの若者の集まりに私も参加するようになり、そこで俊輔と結婚する前のマヤちゃんにも出会いました。
彼女はアラスカに留学して熊の生態にも興味があると話しており、直感でこの子はすごい良い子だな〜って感じました。
彼女の視野の広さと魅力に「この子が島牧に来れば何かが変わる」と確信したのです。
島牧ユースホステルで生まれ育った昔ながらの純粋人間の俊輔、そして世界目線で島牧を俯瞰し、世俗化した人を島牧に繋げるマヤという二人の人間がいる。
これは40年前の島牧移住前に私が夢を見たそれが、島牧で現実になるかもしれないと嬉しくなった。
あの2人(吉澤夫婦)が揃うと島牧村に本当に色々な可能性が生まれ始めてる。今ではすっかり僕もたくさんの苦労、無理を2人にかけて頼っている。
けど、島牧にあの2人がいなければ、今の島牧も、今回の取材も、僕らここまでは活動して動けてないと思います。
波多野さんの目標
—— 波多野さんが島牧村でやろうとしている目標を教えてください。
波多野:はい。僕自身が1番の目標としてるのは縄文時代の再現なんです。
ここ島牧を舞台に縄文時代の再現をしていきたい。
—— え…縄文時代を再現???
波多野:そう。
まずね、縄文時代がどんなものか、殆どの方は正確に知られていないと思ってください。
まず知ってもらいたい大切なこと。
それは縄文時代というのは武器としての石器は出てきていない。
縄文時代には大きな諍い事をした形跡もなく平和は1万年続いている。
それは食が安定していたということが理由として言えます。
—— 食の安定と1万年の平和が続いていた。
波多野:平和が続いていたからこそ、才能も伸ばされ、国宝の土偶はものすごく精巧な縄文が施されており、これは職人、芸術家の域です。
参考に南茅部町(みなみかやべちょう)という場所で、函館(はこだて)にも近くに、北海道で唯一の縄文土器の国宝があるんですよ。
縄文土器の土偶なんだけど。後期4000年くらい前のすごく精巧に職人として時間かけて芸術的に作っている。
そしてこの平和な生活を与えてくれたのがブナ林です。
東北、中部地方が中心で、この地域に縄文人が栄えたのです。
ブナの木、体の貯蔵量
波多野:例えば百獣の王、ライオンですらいつでも肉を容易に食べられるわけではない。
さらに寒い地域は植物も少なく、動物は体の中が食べ物を貯蔵する構造になっていく。
一方、比較的南の人たちというのは植物が豊富にあり食物危機はあまり来ない。とりわけ日本は気候が温暖。
特にブナの木の生育する周辺には、栗、どんぐりだとか、とちの木だとか、クルミだとか穀物も非常に豊富だったわけです。
—— ブナの木々が動植物たちを満たしていた。
波多野:狩場高原(かりばこうげん)のブナはまだ残雪のある時期から新芽を出し、そして時にはその横に去年の枯葉があることも。
太陽光を独占するので純林ができる。普通の草や木の葉は1年で腐食して土に還るのだけど、ブナの葉は10年以上も腐食もしないで10センチも堆積(たいせき)している。
だからブナの森の林床はスポンジのように雨水を蓄えているのでとても潤いがある。私には西日本はなにか乾いている感じがし、東日本には潤いを感じるのです。
ブナの周囲の植物相は豊かで、野生動物の種類も多い。縄文人にとってもきっと豊かな食料があった。
—— ブナの木の存在が大きい
波多野:そうブナの木の生育地域には実に多くの植物質もある。
本来、日本人は体の貯蔵庫が量を貯めないでも良いからだの構造をしていた。
例えば欧米人は太っても糖尿病ではないけど、日本人は痩せてても糖尿病になってしまう違いがある。
—— 体内のたべもの貯蔵量が、自然環境で違っていた。
波多野:そうです。
現代人は糖尿病の人は炭水化物をだめだよ、穀物が駄目だという話になっているのにヨーロッパ・アメリカ式の食が多く入ってきてる。
日本人の体質(貯蔵量)はそもそも変えられないのに、食べ物が変わってきて貯蔵オーバーになってきているのが病気につながる。
—— なるほど。すごくわかりやすい。
波多野:本来はブナの木の森の中の穀物や山菜が豊富だったところが日本人のルーツでした。そのブナの木はいまどこにあるのかというと…
—— 場所はどこにあるのですか?
波多野:ブナの木の北の限界エリアはここ島牧村です。北海道では渡島半島(おしまはんとう)です 。
ここ島牧から南にブナの木々が生育している。島牧から北にブナの木はないのです。
—— 島牧の神秘的な魅力の真相に、まず一歩迫れた気がします。ブナの木々。
波多野:環境の違いをもっと詳しく話すとね、日本、北海道の熊というのはしっかり冬眠するよね?
—— はい、クマさんは冬眠するものと認識しております。
波多野:同じ熊でもアラスカの熊は冬眠していたら通年寒い冬だし、眠りっぱなしになっちゃうから冬眠はできないよね?
—— はい、アラスカのクマさんは確かに冬眠はできなさそうですね。
波多野:冬眠できない熊は通年動き食べ続けて動かなくてはいけない。
植物が育たない環境だと肉食になるよね?
自然環境の中で生き抜くためには、肉食だけで生きていけるように、体の構造を変化させていった。
具体的に言うと、まず体の中の酵素が対応していく。
そして、南の方にいた熊はと言うと、パンダ(クマ科)がいたとする。
—— パンダ。可愛いけどクマさんの一種ですね。
波多野:笹の葉からだけでもちゃんと自身の骨も肉も構成できるようになってる。
その地域地域で自分の生きる道を、消化酵素と体の構造を変えてきている訳だよね。
—— 環境に適応していく体に自然となっていく
波多野:そう、そこで日本人だけど、とても中間的な感じで、その中でも縄文人のエリアはさらに違う。
縄文人に一番近い人たちというのは誰かというと…
—— え?!縄文人に一番近い人?
波多野:それがアイヌという人たちです。
その人たちは少なくともこの寒い北海道で200年ぐらい前までは自給自足生活をしていました。
—— 200年前。最近まで自給自足していた?
波多野:その縄文人=アイヌの世界というのもね、なかなか現代は外からは容易には見えないような仕組みにもなってます。
—— 自分も初めて教わります。
大和朝廷とアイヌ
波多野:私は縄文時代を語る時、小さい頃からいつも不思議だな〜と疑問に思ったことが2つありました。
一つは尊皇模夷派(そんのうじょういは)が倒幕し明治政府ができたのに何で開国し鹿鳴館時代(ろくめいかんじだい) が来たのか?
(※尊皇模夷派(そんのうじょういは)=君主を尊び外敵を斥けようとする思想)
(※鹿鳴館時代(ろくめいかんじだい)=鹿鳴館を中心に日本政府の高官や華族、 欧米の外交団が宴会・舞踏会を催し、欧化主義を広めようとした明治10年代後半をいう)
もう一つは、イザナミの神が日本列島を作り、その後に何で服も着ない縄文人が居たのだろう? でした。
縄文時代にはすでに自給自足と自然と調和した暮らしと永続的な平和があり芸術的な着物も、食に関する知識も高く、継続循環している文化があった。
なのになぜ、神の国で天使様が急に来て日本を造ってという神道の話が成り立ち、突然なぜこの人たちが神になるのか?って。
詳しく言うと、東日本には2万年も前から自然と調和した平和で芸術的な縄文文化が有り、西日本にはブナ林がなく縄文人の密度も少ないので2千年前ほど前に、大陸から森の文化でなく平地の米文化が発達し弥生時代と呼ばれた。
大和朝廷を作った歴史を正当性とするため以前は野蛮、原始的と否定し、イザナミの神が創造し、その末裔が大和朝廷を築いた、と、更に明治に入り天皇家の権威を強調するために縄文文化は黙殺されたのかも。
天皇はおよそ2000年以上前からいらっしゃる。しかしその前の文明は否定しているわけです。だって否定しなければ神武天皇が日本を開いたことにはならないから。
その2000年前より以前のところは、野蛮、原始的で、文明も何もないよ、という形に線引かないと、自分たちの大和朝廷というものに話の筋をもっていけない。
だから歴史的に縄文時代というものを否定してきている。でも本当にごく最近まで縄文人と同じような生活をした人たち、アイヌがいるんだよね。
実際のアイヌと縄文時代を全然違った姿という風に歴史の中に描いて、現代人にはもう縄文人に戻れないよね?っていう印象操作も行われている。
—— もしかしてここ島牧にアイヌの方々がいたのですか?
波多野:はい、居ました。
堀田さんはどこ出身だっけ?
—— 自分は東京生まれですが両親は東北の家系です。母が岩手、父が福島でした。
波多野:そうするとお父さん達の先祖というのは東北からあまり動いていないでしょ。
—— 小さい頃家系図を教わり、ウル覚えですが数百年前まで東北に親戚が多く、現在は九州までと、とても広くなってます。
波多野:けど、よくそこまで調べられた。
北海道はおそらく150年前って言ったら北海道にいるっていう人はほとんどいないんですよ。
—— 150年で急に調べられなくなっちゃうのですか?
波多野:うちのお爺ちゃん達みたいに北海道へ移住しているわけ。その前は全部本州にいたことになるのです。
—— じゃあ北海道というのはずっと原生林か何かだったのですか?未開の地のように。
波多野:うん、人間にすれば未開だけど、そこに生活していた動植物にとっては天国でした。狐にしろ熊にしろみんなそこで自由に暮らし、人間に鉄砲で撃たれたりすることもなく生活してた。
自然の中で何百年も動植物がずっと栄え続けてきていたわけ。今の都会みたいに木がなくなってとかなくて人間がいない方が栄えてきていたわけ。
—— 人間が介入してくると、どうなってしまうのでしょうか?
波多野:やはり人間が来て開拓し100年〜150年。木も森もなくなったわけですよ。
その200年より昔は動物はすごくたくさんいて、森もたくさん、美しき原生林もあった。
でも、実は…
その200年前も人間もいたんです。
—— いたんですか?
アイヌ・蝦夷(えみし)の存在
波多野:それがアイヌという人たちですよ。
その人たちは少なくとも200年ぐらいまで、この長い歴史の中でこの寒いところで、お金もなく自給自足生活をしていた。
自給自足を理想として追求しようとしていると、実は自分達がアイヌの自給自足の世界を破壊していたことに気づくのです。
アイヌの人達は自然産物、土地などに個人所有権の概念がありません。それをいいことに明治政府は全部取り上げ、国有化し大和民族に払い下げ開拓したのです。その尖兵が、私の祖父達です。その反省の心が必要と思ってます。
縄文、アイヌ文化は私たちの歴史の中の選択として消滅させてしまった。しかし過去として葬り去るのではなく、学んで良いところを活かすために振り返ることが必要なのです。
これこそ、現代の目で見直した “縄文時代の再現” なんです。
それが私の目標です。
ぜひ、ご紹介したい、アイヌの人達の想いを込めた本もあります。知里幸恵が著した。「アイヌ神諸集」の序が率直です。
アイヌ神謡集
序
其の昔此の廣い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天眞爛漫な稚兒の樣に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと樂しく生活してゐた彼等は、眞に自然の寵兒、何と云ふ幸福な人だちであつたでせう。 冬の陸には林野をおほふ深雪を蹴つて、天地を凍らす寒氣を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には凉風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の樣な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟かな陽の光を浴びて、永久に囀づる小鳥と共に歌ひ暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穗揃ふすゝきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、圓かな月に夢を結ぶ。嗚呼何といふ樂しい生活でせう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、此の地は急速な變轉をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野邊に山邊に嬉々として暮してゐた多くの民の行方も又何處。僅かに殘る私たち同族は、進みゆく世のさまにたゞ驚きの眼をみはるばかり。而も其の眼からは一擧一動宗教的感念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おゝ亡びゆくもの‥‥‥それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持つてゐるのでせう。 其の昔、幸福な私たちの先祖は、自分の此の郷土が末にかうした慘めなありさまに變らうなどとは、露ほども想像し得なかつたのでありませう。 時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競爭場裡に敗殘の醜をさらしてゐる今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て來たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては來ませう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈つてゐる事で御座います。 けれど‥‥‥愛する私たちの先祖が起伏す日頃互に意を通ずる爲に用ひた多くの言語、言ひ古し、殘し傳へた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまふのでせうか。おゝそれはあまりにいたましい名殘惜しい事で御座います。 アイヌに生れアイヌ語の中に生ひたつた私は、雨の宵雪の夜、暇ある毎に打集ふて私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。 私たちを知つて下さる多くの方に讀んでいたゞく事が出來ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
—— 大正十ー年三月ー日
—— 知 里 幸惠
参考出展:岩波文庫
「アイヌ神謡集」知里幸恵 編訳
—— 貨幣社会ではなかった。
波多野:お金というものが流通していなかったし、文字もなかったけど未開という意味ではなく、そもそもお金を持つ必要がなかったの。
ーー現代人は環境破壊、難病、様々な問題を経験し、自然暮らしに未来の正しい道しるべを感じる人々も増えて来ています。先人アイヌの人達の知恵や知識を詳しく教えて頂きたいのですが。
波多野:もちろんですよ。むしろそのお話を詳しくさせてください。
家系的にうちの父親の親は岐阜県で、母親の親は青森。今ここ島牧村にいるほとんどの人で3代〜4代前まで遡ると北海道出身という方はいないんですよ。
話は戻るけど、堀田さんのご先祖、東北でしたよね?
—— はい東北です。
波多野:けどそれより昔に遡って1000年〜1500年ぐらいまで辿ると蝦夷(えみし)という人達がいたと思うんです。
—— 蝦夷(えみし)ですか。初耳です。
波多野:東北では蝦夷という人たちがいた。大和民族がどんどん進出してきて奈良朝時代「こちら側が大和朝廷の支配だよ」っていう線引きしたところには多賀城がありました。
—— 自分のおばあちゃんは盛岡でした。
波多野:盛岡!そこは郷土心と誇りを持っていた。担沢→平泉→盛岡と蝦夷ということに誇りを持っていた。総理大臣も結構出てるんじゃないかな?
多賀城の後々、坂之上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)、蝦夷を討伐するために征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)というのがいた。岩手県の担沢まで進出し城をかまえた平泉のそばだよね。
遠野物語、岩手の人たちの昔からの言い伝えの中で、自然と動植物と人との温かつながりを遺してきた話だよね。それを掘り起こしたのが柳田 邦男(やなぎだ くにお、1936年6月9日 – )さんという民俗学の人。
まぁ、話がそれたけれども、食べ物というものをしっかり持っていくと戦争というものをしなかったんです。
—— 食べ物の安定で戦争を回避する。
波多野:アイヌの人たちも戦争をしてなかったの。もちろん小競り合いはあるだろうけど、どうやって解決したかというと言葉で解決してきた。
1時間とか2時間じゃなくて、2日でも3日でも4日でも決着するまで言葉で戦うという形。言い返す言葉がなくなってしまったらそれでもう負けみたいになる。
だからアイヌの人たちは、ちゃんと口でしっかり話せる人間が尊敬された。
—— 話し合いで問題を決着する。現代ではけっこう失われてますね。
波多野:そして狩りもいっぱいできる人たちが尊敬された。
いっぱい獲物を獲ってくると貯蔵がそんなにできないわけだから誰かにあげたほうがいい。獲れない人にあげる。獲れない人はありがとうと感謝する。そういう世界があった。
文字がない言葉の世界だから、言葉に責任を持っている。言ったことに、言葉に対して責任を持つ。そうゆう人達が指導者になった。
現代のように言葉は適当で契約書だけしっかりしていれば良いという世界ではなかった。
文字がないというのは文明が遅れていたのではなくて、それぞれの言葉に責任を持っていたという証。言霊の世界。
—— なるほど、心が通っていますね。むしろ進んでいると感じます。
波多野:言葉でお互いを信頼するし、言葉で納得するまで話し合いをしていた結果が武力戦争とか、誰かのものを奪って自分だけ溜め込むとか、人を使って金儲けするとか、そういう文化にならなかった。
さらに獲物を自分の腕で獲ったとも考えてなかった。
それは神様が自分が良い行いをすると与えてくれている。そして神様に感謝することによって与えてもらえる。自然に感謝すると自分にとってもまたいいものを与えてくれる。
だから自然と、自然に対しても何に対しても感謝する。そこに平和というものがあった。食べ物が安定しているところに平和がある。
搾取するとか奪うとか、そういうこととは程遠い概念を持ち合わせていた。助け合って、分け与え合って、自然が循環していた。
植民地と食文化
—— 現代では分け与えることは容易ではなく難しいものがあります。我々はどうすれば良いのでしょうか?
波多野:「お金」というものはどんどん貯金して利子が増え無限に増えてもいいよねという、発想に限りなく欲が付きまとうことになる。
残念なことにお金の世界こそアメリカやヨーロッパが築こうとしている世界ということ。常に搾取、搾取という概念でできているからヨーロッパやアメリカは有色人地を植民地にしていった。
植民地から可能な限り略奪していって、自分たちの資源じゃなくて植民地から搾取することでどんどん栄たという構造がヨーロッパにある。
アフリカでも、東南アジアでも、現地人を酷使して全部自分たちの良い物だけ奪って行った。その結果、産業文化を育てないで寂れさせてしまったわけです。寂れてしまって今はもう植民地には何もなくなった。
だから植民地の彼らは奪っていったヨーロッパに移民に行く。けど、日本はそういう搾取をしてないから移民みたいにはやって来ない。
—— 日本が植民地にした地域は寂れるよりむしろ発展してると、お話しを聞いたことがあります。
波多野:そう、それはまさにアメリカが戦後戦占政策の中で隠してきた真実です。白人たちのことをよくみせるために日本人のやったことを悪く思わせるための戦後教育。
その当時はね、日本以外は全て世界中が欧米白人の植民地だった。
日本が戦ったことによって日本は確かに負けたけど、日本が抵抗したことによって有色人種の日本がやってるんだから自分達もできるんじゃない?独立できるんじゃない?て思った戦中日本に援助をした国々がある。
戦後はアフリカも独立したよね。東南アジアも独立したよね。これは日本が太平洋戦争で戦ったからだよね。ヨーロッパの国を1回排除したからだよね。
白人じゃなくても有色人種でも白人に勝てるんだよね。自分達もできるんだよね。ということが気持ちと士気で独立をどんどんしたんだよね。
そういう意味では結局あの戦争で、アメリカもヨーロッパも日本に負けたんだよね。ただ日本だけはアメリカの戦占政策でそういうものを隠すような政策と教育を押し付けられた。
戦後に生まれた日本の子供達は、日本は戦略戦争をしてすみませんでしたと。中国東南アジアなんかを略奪してすみませんでしたと言う。
けれどもヨーロッパはそれまでそれ以上に略奪して植民地にしたんだよ。ヨーロッパやアメリカが産物を取り上げ内戦を仕掛けた。
そもそも日本は戦争がなくて食料が安定して幸せになれるの文化だったのに。
鎖国していた江戸時代は戦はなかった。欧米が押し寄せ明治後の戦争にまきこまれました。
島牧村の未来の可能性
—— 何を食べるかや感謝の意識は行動と、そして精神にも影響を及ぼし、さらに地域や国レベルで洞察すると戦争の歴史の根源に現われていた…
波多野:そう、僕は何を言いたかったかというと…
結局はこのグローバル国際社会で縄文時代に戻すって言ったって現実不可能です。
でもここ島牧ならできるかもしれない。この小さな空間の島牧村でならね。
もちろん電気などの利用を否定する訳ではなく、お金優先ではなく、縄文の価値観と精神性でね。
私は本当にそう思っているのです。
—— 小さな島牧村に大きな可能性感じます。BIASTRA掲載者様が声を揃えて島牧村を絶賛するその理由、少しだけわかりはじめて来た気がしますが、まだまだ秘密はありそうですね。
波多野:今、俊輔たちとかも一緒に、いろいろ動いているよね。今までのBIASTRAの掲載者さんもかなり頑張ってる方々だと思います。
これは本来の自然回帰への動きの流れの中だと思う。
けどね彼らが自分たちの空間以外のところまで広げられるかどうか?と言うと、周囲の経済の問題ときっとぶつかるから難しいと思う。
けど島牧にはそれ(経済的な障壁)がそもそもない。
基本むしろそれ(自給自足の自然環境)しかない。
この島牧村の自給自足の自然暮らし活動が大きくなれば、島牧全体が本来あるべき姿に独立できるのかもしれない。
今、本当にそこなんだよね。
—— 縄文時代の再現ができる場所は経済的障壁がない場所が良い。たしかに島牧村ですね。ところで第9話の吉澤俊輔さんは自給自足の生活においても、もはや完成に近い段階に達している方と感じますが
波多野:僕もそう言うもん。僕は彼(俊輔氏)を島牧完成型だって。
—— 他にもいらっしゃるんですか?あの俊輔さんのような方は?
波多野:まだあそこまでのレベルにはいかないけれどもね。
俊輔はね、自分のポリシーを持ってそのまま動ける人間ですよ。だからあちこちに欲かいたり大きくしたりしない人間。
出過ぎない。そんな彼のような人間が集まると縄文時代の再来になると思います。
—— なるほど〜もう少し〜じゃないですか。ちょっとやっぱり、島牧村は本当に目が離せないですね。
波多野:これから島牧はすごく変わって面白くなる。今から住む?(笑)
ノマドワーカーの聖地
—— 本来島牧の取材が2〜3日間の予定だったんですけど、大自然、季節の変化、撮影素材の多さ、おいしい食事の数々(笑)とても帰れませんね。というか本当に東京には帰りたくない。取材としても、もしかして数年かけてもきっと、島牧村の記事の完結はしない気がします。
波多野:食べるとか自然とかって入ると1週間、10日、1〜2年じゃ到底理解できないよね(笑)そうそう、数年間は住んでみないとね。
—— 島牧には海と山が背中合わせ、この恵の意味もやっとわかりかけて来ました。
波多野:自給できる素材が揃っているし、島牧村には外から経済メリットの文化が入ってこない。距離的に離れているから、金銭的な目的で遊園地とかそういうものは入って来づらい地理にある。
—— ここ島牧村で縄文時代の暮らし、お金の必要もない文化を実現していくことに町役場はどんな意見を言うのでしょうか?
波多野:役場はまだ今までの流れの中で企業を誘致しなきゃいけない立場ですね。
それは単純に給与をもらって生活するっていう人たちを集めるものです。
—— そうですね。
波多野:しかし現実問題ね、島牧にはお金になる仕事はそんなにないし、お金を稼ぐだけなら都市に行った方が良いという選択の流れがずっとあった。
しかし時代は変わって、堀田さんのようにネットで仕事できる人も現れてきているでしょ?
—— はい。自分はテザリングや、Wi-Fi環境があればインターネットから収入を得ることができます。
波多野:そういうインターネットで金銭収入を確保できる生活スタイルを確立してれば、都会より自然環境で空気のおいしい自然で暮らして優雅に生活したいよね?
なんならここ島牧で生活したいでしょ?
—— はい。間違いのない真実です(笑)ここでノマドしていたいです。
波多野:仕事に関して、場所や環境に依存しないでも出来るっていう方が増えること。
そういう人たちがここ島牧に溢れてくれる日を僕は本当に待っていたんです。
子供のことも本当に自由に自然の中で育てたい。大学まで行った育てたからってなんなのさ?って考え方もある。自然暮らしの方が知恵がつく方がいいよって選択だってある。
島牧に住んだら自然の中で生きていく知恵そのものが体験として身につくよね?
子供の教育というものを考えた時に、学校に行く学費を稼がなくてもいいよねってなれば、収入はそこそこでもいいよねっていう話にもなるよね。
—— ノマドワーカー万歳ですか(笑)
波多野:そういう人たちがもっとここ島牧に溢れてくれる日を待っているんですよ。
—— 推察ですがノマドワーカー人口はいま爆発的に増えていきます。
波多野:そうですか。それは嬉しいことになりそうです。
まずは自然暮らしの一歩目はね、島牧ユースホステルに泊まり、俊輔が展開するさくらの咲くところ、自然での自給暮らしを教えてくれることも大きい。
さらに今、幸所さんって方が島牧に農家として移住して来てくれて、無農薬でトマトを作ってくれているのも興味深い。
都会にはない島牧のいいところがあるから。島牧の良さを活かすにはどうすればいいのかっていう人達が帰って来てくれている。
すごい楽しみな時代になってきている。堀田さんからみて島牧の暮らしはどう映るのですか?
—— 山で楓の樹液をいただきメープルシロップを作りました、それに薪ストーブで焼きたての極上の自家製マヤパンで食べました。島牧の海水で作ったお塩はさわやかな味で、お米も岩海苔も魚も島牧のもので食べる。こんな体験を知ってしまったら東京に帰りたくなくなります。四季をまだ全て知ったわけではないですが、どんどん深みを知って島牧の暮らしには感動しています。
波多野:熊もリスもね、ただそこがいいから住んでるだけだから。それでいいわけですよ。
まだ2回目の訪問で2週間目でしょ?
もうちょっと長い期間ね、島牧での暮らしを体験してもっと魅力的なところがたくさん見つけられると思うよ。
島牧農業振興会としての動き
—— 島牧は人口減少率が飛び抜けているとお伺いしますが、…再生が始まる予兆なのかもしれませんね。
波多野さんの島牧農業振興会としてのご活躍もお聞きさせて下さい。
波多野:面白いのは、実はこのオフィスは農業協同組合の事務所だった。
10年前に当時の組合長の不祥事で破産しかけた。私はこうゆう時にしかお呼びがかからない組合長となって、一年後解散して裁判をやって今は清算期間です。
農協が解散してえらく不便なのよ。でもその一昨年、農協がないことでいいこともあるんだっていうのを見つけたんですよ。
—— 例えばどんなことが?
波多野:国でも今、農協問題どうしようとかやってるけど、政治的すぎるんじゃないかって、弊害あるんじゃないかとか言われてますよね。
僕は島牧に来て30何年間は無農薬という形でやっている。けど周囲の目からしたら何をやってるんだアレ?と人に言われてきたわけ。
今、時代が変わって新規就農も認められてきたけど農協から農薬買わない、肥料も買わない、出荷もしない、農協では「あれは農業者なのか?」っていう話になってくる。
農協が否定的だと役場が動きずらい。幸いね島牧村に農協はないわけよ。
今うちが農協の擦りをやっているわけで、その代表が私なわけで、そうすると自然栽培のような人が来ても違和感無く受け入れられるのです。
—— 農薬も化学肥料も与えない地球の自然の中で栽培しているのに嫌われるというのはそもそも原理原則として…
波多野:農薬等を買わないことは経済効果がない、そして民主主義は多数を占めたほうが正しい。農薬を使う農家が圧倒的に多数。
まだ僕だってそんなに受け入れられてるわけじゃない。立場上仲良くしているけれど本質的にはそんなに受け入れられてるわけじゃない。
それはみんなも恐らく同じだと思うんだけど。
—— 島牧でも農薬肥料とか使っているところもまだある?
波多野:まだ普通の農家が多い。ただし、幸か不幸か小規模な田んぼが多いんだけど、全村合わせて27〜28ヘクタール。
パッとイメージつかないでしょうけど、普通の農業地帯で言ったら昔は5ヘクタールぐらいだったんだけれども今は10ヘクタール以上になってるんじゃないかな。
もっと集約すれば1人でも20ヘクタールとか100ヘクタールぐらい経営してるところもあるぐらい。
大規模な農業地帯だと一軒分ぐらいの農地しかないわけ。
農薬使っているのが10何軒あるんだけど、面積で言えば大きいところの一軒分。
さらにみんなもうだいぶ歳になっているわけで、俺も含めて70代が多くなってきているから、もう後継の子供達もいなくて後どうするかっていう状態にあるわけ。
それで今ね、小規模でも有機農業に興味のある人が新規就農に来てくれませんかっていうので後継を探している。
—— 農スタイルも変われるタイミング
波多野:そうだね。
—— 波多野さん、島牧を盛り上げるために多方面で洞察され、暮らし・食・家からすべての畑のケアも…
波多野:いろんな可能性を考えて行動していかなきゃいけない。自然栽培の始める場所としても島牧は良いかもしれない。
5〜6人のこうゆう意志の人が住んでくれると10年後には島牧村は全部有機栽培の人達に変わる可能性がある。村じゅうがね。
—— ビアストラを読んで島牧に関心をもって移住してみようと思った方のために質問なんですけどまずは最初に何をすればいいですか。
波多野:就農プランとして体験実習がある。
—— え?お金貰えるんですか?これ。
波多野:体験したいっていう人がいれば1年以内で1ヶ月〜可能。基本月々3万円が出ます。10日ぐらいの日当も加えて月に最大6万円ぐらいは援助しますよって言うのが今あるんですよ。
—— これは払うんではなくて?
波多野:もらえるの。6万円貰えるの。
その後、農業に就農すればいろんな援助があるんだけど普通その町でもいろんな援助をしますよっていうのはあるんだけど、5年間はいてくださいよっていう、いなかったら返してくださいよっていう制限が付いている。
でも島牧はいきなり農業しますっていう人は来ない。
—— 企画は波多野さんですか?
波多野:はい。これは村に制度化してもらい、うちの会社の方で運営してやっていくと思う。小さいところでも農業ができるっていうことが可能性があるよって言うことを伝えていきたい。
島牧への移住を考える
—— 今毎日俊輔さんの家で波多野さんのおいしいお米をいただいてますよ!先日俊輔さんと楓(かえで)の木からメープルシロップを採りました。そこも波多野さんの所有している山だとお聞きしましたが、山を購入した理由は?
波多野:山ですか。島牧に来て農業をやるって決めた時に、当時は現在の就農支援のような「来てください来てください」っていう時代じゃなくむしろ強い向かい風の規制や制限があった。
農地を借りたり作ったりすることもできず、まず山を買って開いて農地にして作物をやってと段階を経る。そして「私は農家です」という認知をとらなければ農地は借りられなかったのです。
メープルシロップの山も、そういう意味合いがあって最初に山を買って開いた場所なのです。
—— 静かな雰囲気で微かに聞こえる波の音の素敵な山ですよね。
波多野:いまは使ってませんが、他にもたくさん綺麗な山があるのでまたゆっくり見に来てください。
島牧自体はこういう小さいところなので農業でも2000平米、僕ら2反って言うんだけど20a以上のところを確保しておけば貸したり買ったりはできます。
他の町と比べたらね、割と制限は低い。
—— 今後新しく島牧で土地と家と畑を探そうと思う人にガイドさんはいるのでしょうか?
波多野:それはうちと、俊輔たちくらいかな。来てくれればしっかりお話はできます。まずは何より俊輔のユースホステルに泊まって島牧の食を知って、自然暮らしの入り口として体験してもらいたい。
住んでもらって畑を代々継いでくれる方がいて初めて暮らしが循環していくわけです。5年〜10年して辞めてしまうのなら、田んぼ畑にまた木が生えて、せっかくの畑もなくなってしまう。
島牧に新しく来てくれる人たちを就農支援という形で心から優遇したいけど、継いで欲しい。
その先に初めて生きる自然の循環、いろいろ考えて欲しい。我々自身もね、それなりに考え方を切り替えて、対応していかなければと思う段階です。
島牧の未来予想図
—— では、大変長くなりましたが最後に、この記事を読んで島牧に行ってみようかなと思っている方に暖かいメッセージお願いします。
波多野:島牧のこれからの将来、進歩というのは、経済とか科学だとかの進歩じゃなくて人が気持ちよく住める生活する場所ということができるような所だと思うのでそれを体感してもらいたい。
—— 素晴らしいメッセージですね。季節はいつ頃の訪問がよいでしょうか?
波多野:秋がいろんな収穫物がある秋がいい。
春は芽吹きがある山菜とか木の青い勢いのある時。これもいいですね。
海で何かをしようとするなら夏がいいけれども冬も1年中楽しめるよ。
次回ゲストのご紹介
—— 波多野さん最後にBIASTRA [ビアストラ]のリレーインタビューに、波多野さんが善に貢献されていると思う方をお一人ご指名のご紹介をお願いします。
波多野:OK. そうですね。
たくさん紹介したい人がいて1人に選ぶのは中々難しいですね。
けど、俊輔と結婚してヒグマ対策などやっている、吉澤茉耶を紹介したいと思います。これからの若い人にきっと島牧の良さも、自然の深さもより良く伝えてくれると思いますね。
—— ありがとうございます。ぜひ宜しくお願い致します。
それでは最後になりますが、数日間に渡り長時間におよぶインタビューをありがとうございました。
波多野:はい、こちらこそ。ありがとうございました。